たいてい、「答え」と思えそうなことは、3つある。
肯定、否定、その間のどれか。白か黒か、グレーか。0か100か、その間。
もちろん、これらの中にないこともある。
ただ多くの場合、まず「3つ答えがある」こう考えてみると、わかってくることがある。
たいてい、0と100の間であって、0か100ではないということ。
中庸というのは、当たるという意味で、真ん中と言えなくもないけれども、「正解に当たる」とも考えられる。
にもかかわらず、極端なことを本当のように感じてしまうのは、感情のなせる業なのだろうか。
どこかの誰かが、極端なことを言っているのは、現実とはズレている可能性はある。
例えば、捨てないと変われないとか。
捨てなくても、新しいことを始めた結果、変わるということはある。
方法はいろいろとある。
しかし、極端なことを本当と思ってしまう。これは、可能性を考えるのをやめるからだろうか。
それとも、だいたいそういうことだから、それでいいということなのだろうか。
もちろん、多くのことは、だいたいそれでいいということになることもあるだろう。しかし、そうではないこともある。
命にかかわることや、人生に関係しているような、大切なことなどは、だいたいでよいというわけにもいかないだろう。
いずれにしても、極端なことを言うことが、ポジショントークであるということもあるだろうけれど、それは、違うよね、ということを、「正しい」とか「答え」かのように信じてしまうのはあるのだろう。
そして、それを防ぐにも、「答え」と思えそうなことはたいてい3つはあると考えると、 極端なことの可能性以外もあるのではないかと考えられるだろう。
以下は、余談。
『ブラック・スワン』という本があります。
何かを否定するのは、 1つの否定できる事実があればいい。
スワン(白鳥)は、白い鳥しかいないと思われていました。しかし、その後、黒いスワンが見つかります。ブラック・スワンです。
1羽でも、黒いスワンがいれば、白鳥は白いということを否定できます。
だから、何かが正しい、正解だと決めるのは意外とむずかしい。こういうことはありますね。